「ら抜き言葉」その是非と受け止められ方

日本語の代表的な揺らぎの問題として「ら抜き言葉」が議論されていた時代はもう過去になりつつあります。

昨今、あまり議論の的にならないこの「ら抜き言葉」は、そもそも間違った日本語なのでしょうか?現在における受け止められ方はどのような物なのかについて、少し考えてみたいと思います。

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そもそも「ら抜き言葉」って何?

「ら抜き言葉」とは、いわゆる「食べられる」を「食べれる」や「見られる」を「見れる」と表現するものを「ら抜き言葉」と呼んで現代的な日本語の誤用のような扱いを受けてきました。

「ら抜き言葉」は関東地方では大正時代に始まったと言われています。関東地方では、と地域を限定する理由は、「ら抜き言葉」が伝統的に方言として使われてきた地域が報告されているからで、1870代後半には既にそのような言葉遣いの存在が研究者の間では認められていました。

私たちが現在認識している「ら抜き言葉」とは助動詞の「られる」の「ら」を省略する表現を指します。助動詞ですから動詞のすぐ後について動詞を意味を助ける役割をするのです。

「られる」には受身、自発、可能、尊敬の4つの意味があります。この4つのうち可能の意味で用いる場合に発生します。

なぜ「ら抜き言葉」は発生したのか?

どうして「ら抜き言葉」は発生したのでしょうか。

「ら抜き言葉」は現在においても、話し言葉であることが一般的です。話し言葉として発音しやすく、より簡単にするため、というのが発生理由の一つと考えられます。

もう一つは先に述べた助動詞としての4つの意味にまつわるものです。「られる」が受身、自発、可能、尊敬のどれにあたるかは文脈から判断する必要があります。このうちの受身と可能について、可能を「ら抜き言葉」にするとその違いが明確になるという現実があります。

「食べられる」と言った場合、カエルが蛇に食べられる、といった受身のなのか、蛇はカエルを食べることができる、と言う可能の表現なのかが分かりにくくなってしまうのですが、可能だけに「ら抜き言葉」を使うことによって、その区別はし易くなります。音の問題、意味の問題、両方の必要から生じてきたと言えそうです。

「ら抜き言葉」の今

では、そのように利便性もある「ら抜き言葉」は現在ではどのように受け止められているのでしょうか?

話し言葉ではかなり浸透してきています。著名人や政治家のスピーチやインタビューでもしばしば使われており、話し言葉の中では十分に市民権を得ていると言えるのかもしれません。しかしながら一方でそのような話し方に違和感や不快感を感じる人もそれなりの数に上るようで若干の配慮が必要なようです。

書き言葉の世界ではもっと厳しく、新聞、TVのテロップ、ニュース原稿などでも「ら抜き言葉」は今もって使われていません。文字で書く場合は「ら抜き言葉」は未だ御法度なのです。

文章では「ら抜き言葉」を使って受身と可能を区別するのではなく、前後の文脈で明らかにそれと分かる自然で丁寧な文章を構成することが求められているというわけです。

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